完全なる身体の声を聴く
橋本久仁彦さんという方がいらっしゃいます。高野山大学スピリチュアルケアコースの先生で、
『未二観』(ミニカン:相手の話を「そのまま聞く」に特化したトレーニング)や、『円坐』(円になって参加者全員が座って話をする、エンカウンターグループのような場)という場で、人の話を聴き続け、またその道を教えていらっしゃる方です。
その橋本さんの『未二観』講座に何度か出席させていただいたことがあります。
(下記ページに橋本さんの紹介があります)
https://www.homes-vi.org/event/college2016/college05/
『未二観』では、ペアになって15分の枠の中で「聴く」トレーニングをします。
話し手は、15分の自由な時空間を与えられ、聴き手は話し手の言葉を「辿り」ます。(語尾を繰り返す)。すると、不思議なことに、話し手の物語が広がりを持ち、深まっていく景色を、私達は見ることになります。
話し手の物語は、
邪魔さえされなければ、完全なのです。
聞き手が、何か意見や感想を挟むこと、それらはほとんどの場合、聞き手自身が聞きたいように聞いているために出てくる言葉であったり、話し手を心地よい状態にさせようとする意図から生まれるものであって、
話し手自身のものではない。聞き手が、自分で解釈した結果である。
トレーニングでの15分の逐語記録を紙に起こして、橋本さんがレビューされるとき、
話し手の言葉から紡がれる言の葉は、一見意味のないかに思われる、「~だな、」というような語尾から、無意識に繰り返される言葉まで、一つの言の葉にも、音にさえも、多大な意味合いが含まれることが見えてくるのです。
それは、その瞬間、その言の葉が沸き起こってきたその人の背景にある、その人自身の人生が垣間見える時でもあり、文化人類学的、言語文化学的に、その言の葉を紡いできた私達の祖先から受け継がれる集合無意識が、その人のからだを通して浮かび上がるようでもあります。
話し手がその瞬間・瞬間に聞こえる・見ている外界の景色や事物の音(風、飛行機、電車の音など)も一切漏れることなく、その瞬間のその人の存在に影響を与え、そしてその瞬間に生まれ出る言の葉にも大きな意味合いが含まれてくる。その話し手の物語は、「邪魔さえされなければ」、自律的に、どこまでも広められ、どこまでも深められ、完全に紡がれていく。
それを、目の当たりにします。
話し手の物語は、それ自体で、完全なのです。
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難しい、難いことだと思います。普段から、そして必要とされる場で、とても私は、人を聴く、ということができているとは、思わない。
自分が、音声知覚と音声での短期記憶能力に自信がないと思っている、というのも一つ理由にありますが。
けれど、からだに触れる、その在り様も、この「聴く」ということの在り様と近似しているのではないかと思います。
からだは、本来、「完全」なのです…
邪魔さえされなければ。
本来、どのような状況でもバランスを取り、全体性を保ち、一瞬一瞬変化しながら、生命体としての全体を存続させていく。
からだには、その力がある。
施術では、究極的に言うと、「何もしません」。
ほとんどの場合、押したり、さすったり、マッサージをして力を加えることも、関節を伸ばしたり縮めたりすることもしません。
することは、触れるか触れないかの微妙なタッチで、(もしくは身体表面に触れることさえしない時もありますが)
ただ、おからだの中の声を聴く‥‥それに徹しているのだと思います。
ただ、「共に、います」。
こちらが動かなければ、(声をかけたり、力を加えたり)しなければ、
からだは自動的に、元あるべき姿へと、戻ってゆく。それが、自然治癒力というものなのだろうと、施術をさせていただく度に、実感しています。
こちらが動かなければ(外的に動かなければ)
その内部で、組織たちがゆっくりと動き出すのが、捉えられるのです。
その内部の動きは、一瞬を待った後に、どんどんとダイナミックになります。
逆に、こちらの手や身体のどこかに力が入っていたりすると、
相手のお体の深いところまで、捉えられない。お体の深いところから、治癒はあまり起こってこない。(施術をする側の緊張は、受ける側にも伝わる。)
逆説的ですが、静かにしなければ、音が聞こえないのと同じことだと思います。
静かにして、目に見える動きを止めるほどに、その内部から大きなオーケストラが響いて、内部の動きがどんどんと大きくなってきます。
それもそのはず、身体の中では、60兆の細胞が、一瞬たりとも休まず活動し、その身体を存続させるために働いているのです… 大きなくくりとしての臓器のレベルで見ても、胃、腸、肺、心臓、それぞれがハーモニーをなして連携し合いながら身体全体を維持している。それに関わるエネルギーは一体どれほどのものでしょうか。ものすごく精密で精巧なこの60兆の細胞の宇宙的なネットワークとオーケストラ、一瞬たりとも止まらない活動が続いています。
『安心・安全』と身体が認識できる場であれば、意識状態を低下し、穏やかに、睡眠に近い状態にまで降りていくことができる…
そうした時に、身体全体の機能は修復に向かっても良いことを知り、元の状態へと速やかに移行する。大勢の細胞たちが、生き生きとそれぞれのあるべき場に元気よく戻っていくように。
お体が、そして施術者の私がとらえるものは、実にその時・その場でしか起こり得ない、物語であると思います。
共に、夢を、見ているようです。
私は、もともと大学でカウンセリング学科だったこともあり、言語を用いてのカウンセリングに関心を持ってきました。
けれど、自分が身体的な感受性が強かったこと、身体があまり丈夫でなく敏感であったこと、人の状態や外界の環境(気温、天気など)から影響を多大に受けやすいことなどがあり、
言葉よりも、からだをベースにして人と関わらせていただくのが、自分に合った一つのアプローチなのだ、と近年気づき、結果こうした形で人に関わらせていただいています。
言葉を扱うにせよ、からだを扱うにせよ、目の前の方に、同じことをしているのだと思います。
先日、手術を受けられる方に術前・術後に何度か施術をさせていただきました。
非常に繊細な感覚をキャッチされる方で、こんなことをおっしゃっていました。
「ポニョの妹たちが、動いてる」
(どんなのだっけ?と思われた方…、『ポニョ』『妹』で検索してみてください。私もしました(笑))
手術部位の細胞が、施術によって反応し、一つひとつの細胞が適した位置に戻っていく…そのような感覚をとらえられたのだと思います。
非常に興味深く伺いました。病気と言われる『腫瘍』などは、組織が『密』に集まりすぎている状態なのです。逆に言うと、組織(エネルギー)が集まっていない、『粗』の部分もからだの別の箇所にあるということです。
ヒーリングタッチ、気功によって何が行われるかというと、その『粗密』のバランスが『均一化』される…ということなのです。
偏りなく、それぞれの細胞が、あるべき場所に、バランスよく配置され直される。
(そのあたり、電位変化を起こすということだと思うのですが、私もどうしてこうなるのか、まで分かりません…どなたかもし研究などでご存じだったら教えてください)
からだは、本来、完全です。
健やかさを思い出す、それが施術の一つの目的であります。
もし、その施術がうまくいったのであるなら、
それは、受けに来られた方が、「自分自身」に出逢われた、ということなのだと思います。
その方ご自身も知り得なかった、けれど、その方にしか到達できなかった、ご自身のからだの物語を、聞き、それを紐解いていかれた… そういうことなのだろうと思います。
『河合隼雄の臨床は、よく本人も繰り返し強調しているように、何もしないこと、その無為のすごさに一番特徴づけられると思う。何もしないことで器を提供し、クライエントの自己治癒力やその結果として起こってくることにオープンであろうという姿勢を基本的に持っていた。その器の大きさと、同時にそこでほとんど偶然のように生じてくる不思議な出来事に自分の臨床をかけていたように思われる。「人間力」と自分で呼んでいたけれども、自分が関わることによって不思議なことが起こってくることには、相当な信頼と自信を持っていた。そしてそれは何よりも、何もしないことが、同時に激しさを秘めていることにも関係しているように感じられる。あまり表には出さなかったが、とても激しい人であった。
~(中略)~
どこか自分を超えたものにふれようという姿勢は一貫していたように思う。」
-『臨床家 河合隼雄』谷川俊太郎・鷲田清一・河合俊雄 編 ー
著名な心理療法家の、故・河合隼雄先生について書かれた一節です。
「ことば」「からだ」という違いはあれ、
橋本久仁彦先生や、河合隼雄先生のように在りたい、
その二人の存在はあまりにも大きいですが、その背中を追い続けたい、そう思っています。
愛子
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