バリの自然は蘇る
去年の12月に日本の寒さ回避のためにインドネシアのバリ島にやって来て、そのままここに滞在している。ここで施術をさせていただきながら、また自分自身のヒーリングの学びを深めながら、この場所でしばらく暮らしたいと考えていた。そうしたところ、世界中を震撼させているコロナの影響がここにも訪れ、東京へ帰ろうとも帰れない状況になって来た。
このインドネシアも外国人の入国が事実上制限され、バリも観光客が激減した。私が住んでいるのは中腹部、ウブドの町だが、ここも3月下旬から人がぐっと少なくなった。ヨガスクールもレストランも土産物屋も、観光客が訪れる店は軒並み閉まり、外出は自粛されている。
バリは恐らく今までも、火山噴火などで観光客が激減したことがあるから、こうした景色は初めてのことではないのだろうと思う。それでも今回ほど先行きが見えない状況は過去になかったのではないだろうか。
テガラランという有名な観光スポットがある。美しい棚田の風景で、いつも写真を撮る観光客で賑わっている。そこにも人はいない、店は軒並み閉まっている。全く静かになり、美しい田園を独り占めできるなんてなんて贅沢な、と思いながらその景色を眺めた。
人の粗い「気」…がぱたりと止まり、バリの緑は以前にも増して蘇っているように見える。生命力がみなぎっている。光が、緑が、濃い。これは私の主観でしかないが。私は主観でしか仕事をしていないようなものなので、何が私の仕事の質を決めるかというと、この自身の感覚への信頼しかない。
空気は一段と澄んでいる、この大気の精たちが喜んでいる。
生命の歓喜が沸く。
まったく不思議だ。今この地球上の人間社会は不安と恐れに湧き、慌てふためいているというのに、この地球上の恐らくほとんどの地域では、生命活動が蘇っている。
もともとバリの自然は圧倒的な、大地のコアから沸き出るような力を持っているが、よりその力が増している。今まで抑えられていたものがなくなり、本来の生命の力を発揮できるようになったとでも言おうか。
私が昨年12月下旬にウブドに来た日には、空気があまりに悪くて宿に倒れた。東京都ほどの小さな島は、道も狭い。その狭い道をクリスマス休暇で世界中から人が押し寄せ、公共交通機関が何もないために車やバイク、観光客用のバスがごった返し、道路は渋滞で、この南国特有か、排気ガスは余計に上空に溜まりやすく、大気汚染がひどかった。過敏な私の身体は、1週間ほど嘔吐で倒れていた。1年前に訪れた時には、これまでではなかった気がするのに… たった1年で、ウブドには以前になかったホテルが、ヴィラが、店が建設され、どこも毎日工事で騒がしく、宿で横になっていても隣の騒音で休めなかった。今、経済発展重視の知事がバリを率いているらしい。
そうした汚染された空気が今はない。町は車も人も減った。経済的には大打撃。
けれどこの島が、人間たちがこの環境を壊す前の原状態に回帰しようとしているようにみえる。
一層と、美しさ、本来の命の力強さを自由に謳歌し、光と影濃くなる無数の生命。私たちも、同じ生命体の一つ。
私たちと、この植物たちとの違いは何だろうか?複雑性は違ったとしても、生命体であるということは変わりない。
私たちの細胞の中にはミトコンドリアがあり、酸素呼吸がなされ、ATP合成によりエネルギーが生産され続ける。身体は日光を浴び、ビタミンDを合成し、生命活動を維持し続ける。
私たちは、人間である前に、動物だ。この地球上に生まれた小さな微生物から進化した生命だ。
身体、という生命体のネットワークの全体性を維持し続ける存在、
自然の一部、地球の一部でもある。
そして、今、この地球の大部分を占める自然が、蘇りつつある。中国の武漢では工場から排出される排気ガスが減り、大気汚染が減ったというニュースを見た。インドでも。汚染から自由になり、あるがままにその命を芽吹かせ生い茂らせ溢れさせるいのちたち。
この自然が、祝福されている。だとすれば、私たちも、祝福されている、命として。生命体として。
私たちも自然の一部である。
「不自然」な環境に晒され続けた人体は、脆弱だ。添加物、農薬、電磁波、大気汚染、人間関係や仕事でのストレス。私たちはあまりに長きに渡って、そうした不自然な環境に晒され続けてきたのではないか。それでも生存し続けるため、大脳は「これでも大丈夫」だと指令を出して麻痺させるしかなかったのではないか。
自然と分断されたところから不自然と歪みが生じる。
まずは自分のいのちを蘇らせよう。
動物としての直観を、野性を、身体感覚を研ぎすませよう。頭ではなく、あなたの「腹」は、何を言っているか? 今、スマートフォンやパソコンでこれを読んでいるあなたの背筋は、首元は、心臓は、足先は? それらの硬さ、やわらかさ、温感、歪みや真っ直ぐさは? あなたの、呼吸は?
自然に触れよう。土に、植物に。今は人と接触することが難しい? 自然に触れよう。裸足で土に、草に触れよう。身体の全ての活動…心臓の鼓動、筋膜の動き、思考に至るまで、身体の一切を動かしている力は神経や筋繊維の電気インパルス。電磁波やストレスによって撹乱された電気インパルスの流れ、1日に数秒でも、裸足で大地に足をつけることにより、体内に溜まった電気は放電されて、からだのバランスは自然に戻る。
いのちの力を、借りよう。都会であったとしても、人間の諸活動が少なくなった今、都会の植物たちも、例年よりも一層その力を逞しく伸ばしているのではないか。木に、植物に、触れよう。その表面、内部に流れる微細な細胞の声を聴こう。からだは、いつも地球とつながっている。1人ではない。
自然界が力を取り戻しつつあるなら、私たちの生命も、より本来の力を取り戻すことができる。
祝福されている…私たちの生命も。
私たちが、いのちの豊かさに、降参するならば。
自然と身体がひとつであると、からだの奥深くで知るならば。
コントロールを手放すなら、ジャッジメントを、エゴを手放すなら。
自分がしがみついてきた価値観を手放すなら。その恐怖の中に飛び込めるのなら。
人間が社会的な動物であることももちろんであり、今この瞬間、医療機関含め非常な困難の中にいる人々がたくさんいることも分かる。それらの人々の寝る間を惜しむ甚大な努力にはただただ敬服する。
人間の行動が制限され、外出も移動もできないという前代未聞の状況、経済活動が麻痺し、仕事を失う人々の増加、ニュースでは連日不安が増幅される内容がリピートされ、たとえ感染症にかからなくとも、多くの人が不安と恐怖の渦の中に落とし込まれ、それによって病になりやすい身体の場が作られていく。
イギリスでは、家庭内暴力がコロナ後の数週間で20%増加したと聞いた。
アメリカでは、銃とアルコールの需要が急増しているという。
自殺率が急増した市もある。
不安と恐怖というストレスが与える心身への影響は凄まじい。
まずは自分のいのちを、ひとりひとりが守れるように。自分のいのちが健やかであれば、周りの人にできることも広がる。自分のいのち(からだ)に意識を向け、いのちに触れる。正しく思推する力も、直観力も、クリアな身体から生まれる。
このコロナをきっかけに、恐らくまだまだ人間社会の大転換がこれから起こる。まだ序章であると思われる。全体的、俯瞰的、長期的に社会を見渡すことは難しいが、日々、自分が何を大切に、誰を大切に、どう生きるか、根底から問われた東日本大震災から9年。今自分がどこにいて、何をしているかは、あの時からの自分の生き方が問われた結果でもある気もしており、そして今さらにくっきりと、まざまざと日夜問われ続けているように思う。
わたしたちは、どのような暮らしをいとなめばいいのだろう?どのような社会を、コミュニティーを、仕組みを作ればいいのだろう?
自らが自然の一部であることに感謝し、自らの力を超えた存在への畏敬の念を持ち、足るを知る生き方とは?
答えはまだ見えないし大きすぎる問いだが、少なくとも、今この瞬間は、この先世界が今予測できない形で大変換するであろう10年後の未来へたどり着くためのプロセスであること、地球全体の治癒の過程であるだろうことを信じ、認識し、心を共にする仲間たちと声をかけあっていきたい。
私が施術で毎回体験していることだが、身体が良くなるためには、必ず内側にあった悪いものが表出され、身体を巡る。表現がされなければ、良くならない。痛みも毒も出し切ったあとに、その微妙な、アンバランスな振動は止み、身体は均一性を取り戻し、細胞たちの呼吸も穏やかになる。
恐らく今は地球の壮大な治癒過程にあるのだろう。脆弱なもの、不自然なものは全て流される。これらの壮大なデトックスを意図した一部の存在があったとしても、とにもかくにも自分自身と家族、大切な人のサバイバルが第一優先になる。それさえなくては何もならない。
大切なのは、あなたのいのちであり、あなたが、いのちを最大限輝かせて生きる、ということだ。
いのちの声に、耳を澄ませられるだろうか?
今、私が暮らしている場所は、私の身体が希望した、恐らく万人にとって健やかになれる場所だ。バリの中腹部、町から離れて、朝日も夕日も見える、半円球に拡がる空の真下、田んぼに囲まれた家。ここで施術を行なっている。今、私はこの文章を、カエルや虫たちの合唱の鳴り響く場所で書いている。蛍も目の前を横切る。水が澄んでいるのだ。まるで地上の流れ星。自然が喜ぶ場所なら、願いは叶う。
※コンピュータに触れる時間が少なくなり、サイトやブログの更新がしづらくなりました。FacebookやInstagramで施術のことなどアップデートしています。
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